2017年5月21日 星期日

[空手道] 關於道 (道について)(翻譯)

著者: 東恩納盛男
原文出處: 月刊空手道 2007 MAY P.72

DVD: 武道LIVE


本文出自2007年武道LIVE後,月刊空手道雜誌對舉辦的三位師範針對「道」這一主題所做的訪談,下面的內容為東恩納先生對自己認為的「道」做了回應。

其實這也是很久以前就打的,只是原文有引用文言跟禪宗的話語,加上對日文的理解程度並沒有很高,翻譯內容無法精準抓到那意思而略嫌簡略,因此這裡附上原文,若內容有誤不吝賜教。


武道における道について、簡単にその歴史を探りながら、私なりの観察をしたいと思います。
關於「道」在武道裡面,我想簡單從歷史的面相與我自身的觀察去談。


日本では近代に入り、柔術が柔道、剣術が剣道へ、そして空手(唐手術)が空手道と名称をあらため、それまでの単なる身を守る武術(護身術)より、人間としての人格完成をも含めた総合的な人間形成を目指す武道として昇華されるに至ったのは、偉大な先人の智慧であります。
日本進入了近代,柔術往柔道、劍術往劍道去,而空手(唐手術)也被改名為空手道,從那個時間開始,空手從只是單純的護身術,昇華為也包含培養完善人格為目標的武道,此乃偉大先人的智慧


道教の思想家老子は、”首とは心であり、また道は悟りである”と言っています。道(悟り)を求める心の修行、探究こそ人間としての理想の生き方であると信じています。
中國道家的思想家老子說:「首即心,又道即頓悟(*1)」我相信追求道(頓悟)(*2)的心裡修行、探究,才是作為人類的理想生存方式

*1 這句我真的找不到出自老子的哪句話...

*2 道,日文有MICHI跟DO兩種念法。一般而言道指得是為了讓事物能正確運行所做的規範、倫理、學問,當然也包含了佛教的意義與單純的道路的含意。原文後面特別標註頓悟,應該是想要強調這個道應往禪宗的思考方向去理解


昭和11年10月28日の琉球新報社主催の「空手座談会」において、宮城長順先生は談話の中で「...私は空手というよりは”空手道”と言う法が良いように思う...」と述べられています。これは先に船腰義珍先生並びに高弟の先生方が「空手」の文字の下に「道」をつけられた空手道という名称に賛同されたのであります。
1936年10月28號琉球新報社舉辦的空手座談會裡面,宮城長順先生有留下這樣的話「...比起空手,我認為用"空手道"這個詞講會更合適...」。這是長順先生他對在此之前船越義珍先生偕同高弟在空手」下面增加一個」字一事表達贊同之意(*3)

*3 時至今日,在大部分的日文裡也不會講空手道(KARATE-DO),而是直接稱呼為空手(KARATE)而在空手傳到日本本土之前,沖繩人大多提到這門武術也只會以「手」稱呼,且這發音也非日文的TE,而是跟英文的TEA幾乎一樣的TEE。根據東恩納先生說,就算空手已經傳到本土,到了二戰結束前後,沖繩人自己私下也是用TEE來稱呼空手,但現在已經沒有就是


宮城長順先生がそれまでの沖縄において一般的に使われていた「唐手拳法」という名称から、「空手道」になぜ変えられたのか、その流れを説明したいと思います。
我想針對為什麼,宮城長順先生會將自今沖繩一般使用的「唐手拳法」這個名稱轉變為「空手道」一事做個說明。


宮城長順先生が昭和8年、講演のためにお書きになった「唐手道概説」の中に次のよな禅用語が出てまいります。空手道の真髄は深淵なもので、一般武道と相通ずる『教外別伝不立文字』の極地において会得せらるべきものである」と説明され、また『武道本来の面目に邁進することを期し、ことに拳禅一致心体從をもって信条とするに至った』以上のことから推察しますと、宮城長順先生は座禅の修行をされ、さらに深く人格完成のため自己の探究をされていたと考えられます。
宮城長順先生在1933年為了演講而寫的「唐手道概說」裡面出現了如下的禪語。「空手道的真髓猶如深淵一樣,是在與一般武道共通『不立文字、教外別傳(*4)』的極地中才能理解的東西。另外『期望能向武道本來的樣子邁進,特別是以身體與精神抱持著拳禪一致(*5)的信條為手段來到達這個目的」從以上的話語可以知道,長順先生有修禪,並且有為了讓自己變得更好(身為人的人格)而進行自我探究

*4 全文出自禪宗的「教外別傳,不立文字;直指人心,見性成佛。」不過我並沒修過禪學,僅以Google尋找到的文章與聽過東恩納先生的想法做解釋。「不立文字」指得是不假語言文字,教外別傳」並非是非我教派不傳,「教」就是教理,也可以說是經典;「教外」就是教理經典之外。「別傳」是教理經典之外,另有傳承、傳授的方法,合稱為「教外別傳」只是印證所契悟的本心而已,沒有什麼法可傳,沒有什麼法可得。

我的理解是,長順先生認為空手道的練習是無法透過簡單文字圖片而習得的,練習者只能透過實際打出來動作給指導者看過後,再慢慢糾正與調整。這種調整上所耗費的時間鐵定不短,這也更凸顯現今社會常出現沒經長期指導而妄想只透過看Youtube或書來練武,此等言論的荒謬

主要參考  http://www.masterlee.url.tw/lee/chibook/zenlife/zenlife-06.htm

*5 禪會說有時候一句話就能讓人悟道我自己的簡單解釋是,有時候一個動作的熟練便能輕易做出其他一連串動作


厳しい空手と座禅の修行を通して、真の道(悟り)を求めておられたのだと思います。
我認為可以透過嚴厲的空手與禪的修行,來取得真正的道路(頓悟)。


宮城長順先生は生涯武道一筋で生きられた真の武人でした。その武術の高さは、宮城長順先生の全ての門下生が証言されているとおりです。宮城長順先生の型の動きは素晴らしく、一瞬における淒まじいパワーでの剛の極め、次の動きに移る時の絶妙な間の置き方、そして全身が柔らかく相手の手足に粘り着くようなムチミある柔の動きは、言葉に形容しがたく、まさに芸術美そのものであったと言われています。
宮城長順先生是一個為了武道而生的真正武人,他的武術之高,其全部的門下弟子皆出來作證長順先生對於型的動作與理解是非常優秀的,一瞬間打出極為剛猛的力量,下一個動作便移動到絕妙有利的位置、全身柔軟如麻糬一樣沾黏封印住對手的手腳施展出柔的動作,這已經不是言語能形容的、已經到達藝術美的境界


宮城長順先生は生前、「空手を身につけるためには天地自然と一体となって自分を磨かねばならない」「武道は宇宙である」「天地自然と一体となって調和しなければならない」と常々門下生にお話されたと聞きます。宮城長順先生は緑と山の多い沖縄の北部、国領へよく行き、自然の中で稽古をされました。山の中や海岸などの大自然の中に身を置き、瞑想にふけったりしたそうです。宮城長順先生の飽くなき「道」を求める求道者であったのです。
宮城長順先生生前常對門下生說「為了能習得空手,與天地自然融為一體來磨練自我是不可不行的」、「武道即是宇宙」、「不與天地自然調和為一體是不行的長順先生常前往充滿綠意與多山的沖繩北部‧國領的大自然之中修練置身於山中或海岸等大自然中沉浸於冥想追求自己無止盡「道」


厳しい型の稽古を通じて、自己を探究し、天地自然と一体となることこそ、武道としての空手を稽古する者の追い求めるべき道であると信じています。
我相信透過嚴厲的型練習:探究自己、與天地自然融為一體才是作為武道的空手,其修練者應當追求的道路


偉大な先人が残されました「空手道」の道は遥か遠くにありますが、我が師を信じ、そして自分自身を信じ、飽くなき情熱を持って、一歩一歩空手を使って歩む以外にありません。ひたすら前進あるのみです。(*6)
偉大先人們殘留下來的「空手道」之路是一段看不到終點的路,只能相信自己的老師,並且相信自己,保持不退散的熱情,持續前進、一步一步練習空手之外沒有第二條路可走。

*6 東恩納先生的口頭禪之一,在沖繩時就不停接受他此句話的教誨網路上一些影片也可看他有不斷重複講過

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